久保建英がピッチに戻ってきた。88分、セビージャのラ・カルトゥハ競技場。スタンドの歓声が一瞬だけ大きくなった。それは単なる途中出場ではなく、83日間の沈黙の終わりだった。
2026年4月18日、レアル・ソシエダはアトレティコ・マドリーを相手にPK戦4-3で下し、コパ・デル・レイ(スペイン国王杯)を6年ぶりに制覇した。久保建英にとってはプロキャリア初タイトル、さらに日本人選手として初めてスペインの公式タイトルを手にした歴史的な夜でもある。しかし、この優勝の意味をただのスタッツで語ることはできない。なぜなら、この物語は1月18日、担架に乗せられた瞬間から始まっているからだ。
1月18日、バルセロナ戦での崩壊
あの試合は勝っていた。しかも相手はバルセロナ、スペインが世界に誇る最強クラブだ。2-1でリードし、久保建英は右サイドで躍動していた。そして後半24分、69分のことだった。スプリントの瞬間、左足太もも裏に激痛が走り、久保はピッチに倒れ込んだ。担架が呼ばれ、スタジアムに重い空気が流れた。
翌日、レアル・ソシエダは公式発表を出した。「左ハムストリングの筋損傷」。断裂ではなく筋損傷だったことは不幸中の幸いだったかもしれないが、想定離脱期間は「1〜2ヶ月」とされた。結果的にそれは3ヶ月近くに及ぶことになる。あなたが最後に職場に行ってから3ヶ月間、同僚たちが自分なしで重要な仕事を続けていたとしたら、どんな気持ちになるだろうか。
日本へ、家族のもとへ
負傷直後、久保建英はスペインに残らずに日本へ帰国した。公式な理由は明快だった。監督マタラッツォの言葉を借りれば「家族とともに、担当医師のもとでリハビリを進めるため」だ。チームの医療スタッフから離れ、日本でのリハビリという選択は、決して珍しいことではない。しかし、シーズン中盤に長期離脱を余儀なくされた選手が、チームから物理的に離れて回復に専念するという決断は、プロとしての自己管理能力と精神的な強さを同時に物語る。
「久保建英はソルジャーだ」。この言葉は、帰国する彼を見送ったチームメイトの一人がSNSに残したものだ。負傷した直後に戦場を離れるのに「ソルジャー」と呼ばれるのは矛盾に聞こえるかもしれない。だが、戻ってくることが分かっている離脱だから、そう呼ばれる。それが彼への信頼の証明だった。
チームは待たなかった、でも勝ち続けた
久保がいない間、ソシエダは止まらなかった。これが複雑な話だ。チームのエースが抜けたにもかかわらず、ソシエダはコパ・デル・レイの準々決勝、準決勝を勝ち上がり、決勝まで駒を進めた。右サイドのポジションにはゴンサロ・ゲデスやアンデル・バレネチェアがカバーに入り、チームとしての機能は維持された。
この事実は、久保にとって何を意味するのか。「自分がいなくてもチームは回る」という現実は、プロスポーツ選手として複雑な感情を呼び起こす。完全に必要とされている安心感と、いつでも代替可能かもしれないという不安が同居する。だが久保は帰国先の日本でリハビリを続けながら、チームの試合結果を追い続けていたはずだ。3月26日、地元ラジオ局「Onda Cero Euskadi」のインタビューで彼はこう話した。「出場できる選手のひとりになれると確信している」。その言葉には焦りより、静かな決意があった。
3月31日、「完全復帰」という2文字
長かった。3月23日にグループ練習への合流を果たしたが、それはまだ「制限付き」の参加だった。完全に制限なしでチームトレーニングに加われたのは3月31日のことだ。1月18日から数えると、72日が経過していた。リハビリとは孤独な作業だ。試合に出て点を取れば評価される世界で、ひたすら筋肉の回復を待ち、走り、止まり、また走る。スタジアムの歓声もなく、カメラもない場所で続けられる努力こそが、プロの本質かもしれない。
復帰への道のりで、久保が語った言葉がある。「最初は確信が持てなかった。でも今は大丈夫だと思っている」。これがリハビリの正直なリアルだ。プロ選手であっても、怪我からの回復に確信を持てる瞬間は、思ったより遅く訪れる。
アラベス戦、36分で証明したもの
4月11日、ラ・リーガ第31節アラベス戦。83日ぶりの公式戦出場が実現した。与えられた時間は36分。後半から途中出場し、わずか数分でアシストを記録し、ビッグチャンスをもう1つ創出した。試合後にはMan of the Match(試合最優秀選手)に選ばれている。
36分、1アシスト、1ビッグチャンス創出。この数字を「すごい」で済ませてしまうのは簡単だ。でも少し立ち止まって考えてほしい。3ヶ月間、実戦から遠ざかっていた選手が、復帰してわずか数分でゴールに直結するプレーを見せた。体の動き、相手との距離感、スプリントのタイミング、これらはトレーニングだけでは取り戻せない感覚だ。現地スペインのメディアは「決定的な瞬間に違いを生み出す」と賛辞を送った。それは誇張ではなかった。
決勝、88分の「再登場」
4月18日、決勝当日。先発メンバーに久保の名前はなかった。当然だ。アラベス戦からまだ1週間も経っていない。フルフィジカルで90分戦える状態ではないと、チームも本人も分かっていた。マタラッツォは久保を「切り札」として温存した。この判断の意味は、試合が進むにつれて際立っていく。
試合はドラマだった。ソシエダが先制し、アトレティコが追いつき、後半さらにアトレティコが逆転。だが88分、ソシエダがもう一度同点に追いついた。そして同じ88分、その同点の直後に久保建英がピッチに立った。まるで示し合わせたようなタイミングだった。延長戦の30分間を含め、久保は計32分間プレーした。試合はPK戦へともつれ込んだ。
蹴らなかった理由、それでいい理由
ここで一つ、重要な事実を押さえておく必要がある。久保建英はPKを蹴らなかった。ソシエダの5人のキッカーに、彼の名前はなかった。これは失態でも、不調でもない。久保は以前から「PKはかなり苦手」と公言しており、チームもそれを把握した上でキッカーリストから外していた。優勝を決めた5本目は、パブロ・マリンが静かに蹴り込んだ。
この事実こそが、この記事で最も伝えたいことかもしれない。「英雄的なPKを蹴って優勝を決めた」よりも、「苦手だと分かっている役割は担わず、自分にできることを32分間やり切った」という現実の方がよほど興味深い。自分の弱点を認め、それをチームとして補完し合う。これが大人のプロフェッショナリズムだ。敵チームのサポーター掲示板r/atleticoには、こんな投稿が残った。「Kubo only played 32 minutes but was composed throughout. Annoying.(久保はたった32分しかプレーしていないのに、ずっと落ち着いていた。腹が立つ)」。直訳すれば「腹が立つ」。それが相手チームサポーターの最大の賛辞だった。
「プロとして初めての決勝」が意味するもの
3月下旬のインタビューで、久保はこう語っていた。「プロとして初めての決勝で、みんなと喜びを分かち合いたい」。この言葉を読んだとき、少し驚いた人もいるかもしれない。久保建英はU-17W杯得点王、東京五輪代表として活躍し、レアル・マドリーの下部組織を経てスペイン1部で長くプレーしてきた選手だ。それでも「プロとして初めての決勝」は、26歳になるまで訪れなかった。
プロのキャリアは長い。多くの選手が輝かしい若手時代を過ごしながら、タイトルに届かないまま引退する。久保はその現実を知っていた。だからこそ、あの言葉が重かった。そして4月18日の深夜、セビージャのピッチで紙吹雪が舞い、チームメイトたちがトロフィーを掲げたとき、久保建英はその中にいた。3ヶ月間の沈黙の後に辿り着いた場所として、これ以上の答えはない。
怪我はキャリアを止めることができる。だが、選手を定義することはできない。久保建英という選手が何者かを決めるのは、担架に乗せられた瞬間ではなく、ピッチに戻ってきた瞬間だ。


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